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【問題提起】
総合政策学部における思想研究の役割
大学に学ぶとはどういうことか? ― なぜ思想を学ぶことが必要か?


さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑するものが来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイによる福音書 4:1-4)

 総合政策学部は問題解決型、社会に密着した事柄を学ぶ学部です。たんに、机上の論理に終わってはならないのです。しかし、社会に密着した学問は、どのようなものであるべきでしょうか。社会とは、様々な欲望を持った人々が、思い思いの仕方でその欲望を満たそうとしてひしめき合い、愛し合い、争いあうところです。私たちが生きる市民社会にあっては、その欲望を満たすための最大の手段は経済活動です。

 現代ではすべてのものが、自らの欲望を満たすことに向けられ、その欲望を満たすために経済的価値のみが唯一の価値であるかのように考えられます。

 人間は(ほかの生き物と同じように)欲望を満たそうとする存在です。しかし、そこからただちに、だから人間は欲望を満たそうとするのは当然であり、正当であり、ただ欲望を満たすために生きてよいのだ、と考えるとしたらどうなるのでしょうか。欲望、それが食欲であろうと、性欲であろうと、物欲であろうと、支配欲であろうと、名誉欲であろうと、それらの欲望が支配するところでは、人は自分のことだけを考え、他の人々、隣人をその欲望を満たすための手段と見なします。ただ性欲を満たすだけのために抱き合う男女は、どんなに近づいても実は自分の満足のことばかりを考えているのではないでしょうか。それは、経済活動においても同様です。セールスマンがあなたにどんなに愛想良くしてくれても、それはあなたを愛しているからではなく、彼の商品をあなたに売りつけるためである、ということを、誰でも知っています。あなたは、そのセールスマンにとっては、金儲けの手段、つまり自分の欲望を満たす手段に過ぎません。

 人間は、自分の欲望に対して、ノーといえずにただついてゆく、そういう存在なのでしょうか。もしそうならば、人間は他の獣たちとどこが違うのでしょうか。人間だって、サルの親戚、大きな違いはない、という人もいるでしょう。それも本当です。人間は自然の中で特別の地位にあり、自然を支配し、資源として利用し尽くしてよい、という考えが、近代の環境危機を引き起こしたのですが、そのような人間の高慢に警告を発するために、人間も生態系の一員である、というならば、まことにそのとおりであります。しかし逆に、自分の欲望に従って生きるのが自然だ、といいたいために、人間もほかの生き物も変わりはない、というならば、これは危険きわまりない主張です。

 動物は、知性に拠ってではなく、本能のシステムによって自然環境に適応しています。しかし、知性は自然に変更を加えます。知性は欲望を、必要以上に強めたり、別の対象に向けたりしながら、無限に増幅することができます。こうして、知性によって増幅された人間の欲望は、知性によって産みだされた技術を手段に、詐欺や戦争や大量虐殺を引き起こしました。純粋に本能に忠実な動物たちは、詐欺や戦争や大量虐殺を起こしません。

 このように、人間は知性を持つがゆえに、欲望に盲目に従うのは恐るべきことなのです。それゆえにキリスト教は、自己の欲望に盲目に従う自己中心的な生き方を「罪の奴隷」と呼んで、警告を発してきました。一見自分の欲望に従うのが自由な生き方と思えても、それは人間を不幸にし、苦しみを増し、いよいよ欲望にがんじがらめになる不自由な生き方なのです。真の自由とは、そのような欲望からの解放、自己中心主義からの解放のことである、と、キリストは教えました。自分の欲望を満たすためでなく、むしろ自分の欲望の奴隷にならないように、自分に目を向けるかわりに、ほかの人に目を向け、自分が満足を得るかわりに、ほかの人に満足を与えようとする。人に仕えられるのではなく人に仕える。そこに、隣人への奉仕、マスタリー・フォー・サービスの理念が生まれて来るのだと思います。それゆえに、マスタリー・フォー・サービスは、それ自身自己満足であってはならないのです。楽しいからサービスをする、楽しさや喜びを求めてボランティア活動をするのではありません。それは自己満足に終わります。むしろ、喜びは奉仕のあとに、ひとりでに添えて与えられるものではないでしょうか。

 知性を持った人間が自分を省みることなく欲望に従うことは、他の生き物が本能に従って生きることとはちがって、悲劇的な結末を産み出すということを申し上げました。このことを、私たち総合政策学部では皆が関心を持っている自然環境の保護の問題に応用してみましょう。

 先の京都会議で合意された地球温暖化防止のための京都議定書の目標達成について危ぶまれています。ドイツや北欧など、環境政策レベルでそれなりの成果をあげている国があるのに対し、日本は二酸化炭素の排出削減どころか、増加の恐れが大きくなっているようです。そして、アメリカ合衆国は経済への影響を懸念して京都議定書の批准を拒否するにいたっています。アメリカ合衆国のこの拒否宣言に関しては私はコメントするだけの資料を持ち合わせませんが、日本に関していうならば、エコノミックアニマルという言葉に的確に表現されるような、金儲けオンリーのメンタリティー、経済至上主義が文化として定着しつつあるというところに、大きな問題を感じます。おそらく、多くの日本人はこの経済至上主義という現代日本のメンタリティを当たり前のものとして受け入れ、疑問に感じていないと思います。

 私は、一部中断はありましたが、あわせて15年あまりドイツで暮らしました。60年代の終わりに京都大学入学したとき、大学は紛争の嵐でした。入試直前は、次々と大学が入試を取りやめにして、最後の頼みが京都大学だったのですが、いざ入学すると、気がついたら私もバリケード封鎖に加わっていたのでした。しかし、このあたりの話はまた別の機会にさせていただきます。京大では哲学を学び、修士課程を終えてドイツに留学しました。博士の学位を取得したあと、しばらくミュンヘン大学で教えておりましたが、1992年、久しぶりで帰国した私は、お金の神様マモンにとりつかれて有頂天になっている日本に愕然としました。それは、カルチャーショックでした。そして、帰国してからはふくらむだけふくらんだ、中身の空っぽなバブルが次々にはじけていく風景に、更に激しいショックを受けました。その時に私は、ヨーロッパと日本とでは、人々の経済に対する意識がかなり違うということを思い知らされたのでした。

 多くの日本人にとって、社会生活と経済活動とは、同じことであると気づきました。もちろんドイツも経済大国です。ドイツ人は経済活動に熱心です。国民経済が輸出に依存する割合は、日本よりも大きいぐらいです。しかしその勤勉さ、実直さは、ただ金儲けオンリーの生き方をも拒否する勤勉さ、実直さです。日本の社会には、経済というファクターに対抗できるような勢力は存在しません。ボランティアもNGOもドイツに比べれば無力です。貨幣の価値とはべつの価値などは存在しないかのようです。かつての日本でも、もちろん経済的価値は重要でした。しかし少なくとも人々は、物流による儲け、という意味での金儲けの価値を体現する商人のほかに、ものづくりの価値を体現する職人、自然との調和の中で作物をそだてる農民、いざとなれば自分の命を捨てても勤めを果たし名誉を守るさむらい、そして、あらゆる世俗的な価値を放棄した僧侶たち、それぞれの価値の多様性が守られてきたのでした。それが身分社会という問題を孕んでいたことについては、別の機会に譲ります。また、当時であっても、いろいろな堕落形態があったことも疑いありません。次第に強くなる経済的価値の支配のなかでも、人々は少なくとも、経済的価値を、価値の多様性の一つのファクターとして理解しており、多様な価値をめぐる多様なアイデンティティを生きていたのでした。

 ヒトラーを最後とするわずかのケースを別として、中央集権国家を作らなかったドイツにおいては、価値の多様性は維持されやすかったという歴史的背景もあるでしょう。いずれにせよ、貨幣による経済価値の一元化が行き渡ったようにみえる現代の工業先進国ドイツにおいても、市民団体や教会などに代表される多様な価値が世論形成に関わっている、という現実、それはドイツに限らず、ヨーロッパに程度の差はあれ当てはまることですが、日本やアメリカの経済価値一元論とは一線を画しています。二酸化炭素削減は、経済の持続的発展を阻むものであってはならない(「持続的発展」を経済にだけ制限する使い方は適切なのでしょうか、この問題には今は立ち入りません)という理由で京都議定書を拒否するアメリカ合衆国、また、ビジネスにならない環境保護は成功しない、としたり顔で語る日本、それは、日米社会で経済的価値の優位度が、ヨーロッパよりもはるかに高いことを示しています。

 「人はパンだけで生きるものではなく、神の口からでる一つ一つの言(ことば)で生きるものである。」
という聖書の言葉は、様々に解釈することができるでしょう。人はパンだけで生きるものではない、ということは、当然、まずパンが必要だといっているのだ。だからパンを生み出せない神の言葉は役にたたないし、だれからも支持されない、と。日本の一般的主張はそのようなものです。しかしそれは、先ほどの例を繰り返すなら、「人間は欲望を満たすために生きているのだから、欲望を満たすために生きてよいのだ、なぜなら欲望を禁じることはできないのだから」というに等しいのです。そのようなロジックは決して二酸化炭素の削減への積極的な取り組みを産みださないでしょう。人間の欲望は、知によって増幅されるゆえに、必要に応じて知によって制御されなければならない。そのことを知って実行すれば、それなりの成果があること、このことを私たちはドイツや北欧から学べないのでしょうか?もしそのように、欲望を知によって制御することの精神的・文化的・社会的な仕組みを示すことができるなら、それが、思想に裏付けられた政策学のはたすことのできる貢献だと思います。

 学問と研究は、現代社会は経済原理によって支配されていることを確認します。経済原理の支配は、一つの事実として受け入れ、経済社会の構造を分析しなければなりません。これは極めて重要な研究課題です。しかし、そのことから直ちに、だからすべては経済原理によって支配し続けてよいのだ、という帰結は導かれません。とくに、そのような経済の価値一元論が、自然環境・社会環境への大きな脅威になっている現在では、その一元論の運命についても、十分考えてみなければなりません。人間は、自己の生きている価値体系を相対化することは困難です。むしろ、そのような異なる立場を、何とか退けて、今の自分の立場を変えずにすまそうとします。大学では、社会の現実をあるがままに受けとめ、その仕組みを研究し、それを最適化する方法を提案すると同時に、その社会を貫く基本的な価値観を分析し、必要であればそこまで踏み込んだ提案をしなければなりません。

 「人はパンだけで生きるものではなく、神の口からでる一つ一つの言(ことば)で生きるものである。」
これは、神を信じなさい、といって済む問題ではありません。自分の欲望を満たすために、そしてその正当化のために、自然環境や社会環境の破壊という代価を払っても、払わせてもかまわない、と考える人間の自己中心主義、キリスト教の表現を使うなら「罪」から解放され、人間だけでなく、野の草、空の鳥をも同じようにはぐくむ神のロゴス ― (言葉、という意味と同時に、論理、世界の秩序という意味があります)現代の言葉で言いかえるならエコシステムの声 ― にも耳を傾けよ、「悔い改めよ!」というのがこの箇所のメッセージではないでしょうか。そして、自己中心的、人間中心的な価値に対して、新しい価値を体現するのが、エコロジーの持つ哲学的側面です。環境保護は単なる技術、人類にパンを確保する手段ではありません。それにもまして、エコロジーは一つの意識改革、新たな思想文化を支えるべきものです。




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