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【問題提起】
大学の大衆化とそのゆくえ ― 総合政策学部に賭ける

「キリスト教主義大学」と「エコロジーの理念による総合政策学」の
結合が意味するもの

鎌田 康男


中世に設立された Lincoln College (Oxford)
おそらく100人に満たない学生が教授(fellow)たちと居を共にした

 大学の大衆化が問題になって久しい。教育の本来の姿は、一対一の人格的な交流である。イエスも、ソクラテスも、仏陀も、孔子も、弟子たちの教育にあたっては対話を基本とした。一見非効率に見える対話を通して、一人ひとりが人と自然の共生社会(共同体)の中での自分の位置を確認する能力を育てる全人教育であったものが、近代市民社会の効率化・経済化の要請の中で、役に立つ=儲けになる技術教育へと変貌を遂げた。最小の投資で最大の利益をあげる ― 一人の教員ができるだけ多くの学生に、近代市民としてのノウハウを効率的に与えようとする意図が、欧米の19世紀以降に登場する大型大学に反映された。日本の近代化にあっても、富国強兵政策の当然の帰結として、大企業の大学版であるマンモス大学を理想とした。ここに教育の人間不在はすでにプログラムされていたと言ってもよい。大講義室の教授には、講義マシーン、うまくいっても、教養エンターテイナー以上のものを期待されない。それぐらいなら、タレントを教壇に立たせた方がずっとうまくやるだろう・・・

教授と学生が食事を共にしたホール ― John Wesley
1726-51 に Lincoln College の fellow を勤めた

 大型大学に象徴される知の大衆化は確かに、市民の知のレベル向上に貢献した。コンピュータゲームは、人間関係の健全な育成の障害になると危惧されながらも、他方で、複雑な技術的指示を巧みにこなす知的労働者育成に向けた基礎教育という意味ではきわめて有益である。テレビは、自分で考える能力を窒息させるといわれながらも、絶えず外から流れ込む情報を、むずかしいことを考えずにつなぎ合わせて自分の価値観とするような精神構造を作る。同時に、各人の意識に潜む攻撃性のガス抜きと、擬似的な共同体意識を作り上げるために、スポーツ番組(個人技から国際試合まで)や、悪玉がはっきりしている誘拐・殺人事件や、悪者としてやり玉に挙げやすい政治家、警官、教員などの不祥事、さらに暴力団や怪しげなセクトの犯罪行為について定期的に報道することを忘れない。技術的指示、社会的暗示を従順に受け入れ、巧みにこなせる人間が多ければ社会は安定し、経済は繁栄する ― これが現代日本の教育の根本原理である(あった)。船頭=技術的な指示をする人、社会的な暗示指示を与える人は社会のほんの一握りでよいのだ、と・・・。

19世紀末に設立された Keble College (Oxford)
近代市民社会が最盛期を迎えたこの時期に大学は巨大化していった

 一般市民は、高度な技術的指示を巧みにこなせる能力を開発するのと同時に、ますます効率的に、ますます多く生産される物資を次々と消費するというリサイクルによって社会に貢献しなければならない。そこでは自分にほんとうに必要かどうかを判断せずに、コマーシャルに代表されるマスメディアにあやつられるままに、自己の欲望をみたすべく次々と物資を消費してゆくことが市民の神聖な義務となる。あてがいぶちのブランド商品へと条件付けられた欲求を、人は、失われて久しいあの自由意志であると錯覚する。

 主体性不在の教育が嘆かれている。しかし、依然として主体性を育てる教育が根付かないのは、儲け至上主義の社会が ― 厳しい国際競争に晒されている一部企業を除いて ― それを本気で望んでいないからなのだ。もし本気でそんな教育を施したらどうなるか?人々は与えられる指示がほんとうに適切かどうかを考え、またコマーシャルに流れる商品がほんとうに必要かを自分の頭で考えることで、生産と消費の無限な拡大によって成り立つ現代の大衆消費社会そのものの基礎を破壊してしまうであろう。

大勢の学生や教授を収容する Keble College の壮麗なチャペル

 多くの大学生にとって、アルバイトが生活のリズムを決めるともいう。経済的には、高い学費を払うことで4年後の卒業証書を予約し、学生としての、あるいは親としてのつとめは済ませた。だから今度はその学生を、安い労働力として使えばよい。大学生になったのだから、小遣いぐらいは自分で稼ぎなさい ― そうして得られたバイト料は、そのまま消費へとリサイクルするのである。その実態を知るためには、アルバイト世代を重要な顧客層とするコンビニやファミリー・レストランで働くのは、店長以外はすべてアルバイト、という現実をみれば十分である!このようにして物流は無から創造される。そういった社会通念が、日本の経済を支えてきた。生産と消費の相互刺激による、チェーンレターやネズミ講にも等しい無限の成長は、幻想であることがだれの目にも明らかである。そして私たちに残されたものは、荒廃した人間環境と自然環境だけなのだろうか。

 世界のあらゆる問題、あらゆる方向に知的な気配りをする総合学としての「総合政策」、人と自然の共同性を目指す「エコロジー」の理念、自己中心的な欲求充足のまどろみから愛の共同体へと目覚めさせる「キリスト教主義」精神、とくに「マスタリー・フォー・サービス」の理念 ― それらのモットーは、上に述べたような問題への答えではない。むしろ今述べたような問題に気づかせるべく、私たちに投げかけられた「問い」なのだ。それらの問いかけを他の物資と同じように「大学企業」の物流のサイクルの末端で自己満足的に消費するにとどまらず、その問いを問いとして真摯に受けとめること ― 答えを模索することが、学生、教員、職員を含む大学人、ことに総合政策学部の私たち一人ひとりの存在理由ではないだろうか。総合政策学部の掲げる "Think globally, act locally" の理想を私はそのように理解する。

写真は、1993年に撮影したビデオをキャプチャしたものです。
見苦しい画質であることをお詫びいたします。


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