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同時多発テロと報復戦争 ― 複雑なものへの畏敬

これは、2001年10月4日、関西学院大学総合政策学部におけるチャペルトークの準備原稿です



【聖書より】

 イエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしているときにつかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上イエスに言った。「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなた方の中で罪のないものが、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面にものを書き続けられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出ていき、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起こして女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた。「私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。(ヨハネによる福音書8章1節〜11節)



みなさん、お早うございます。鎌田です。
 今日は、「関西学院大学で学ぶことの意味」というテーマでお話しすることになっています。私は、このテーマを取り上げるにあたって、今私たちの大きな関心事である、アメリカ合衆国の同時多発テロ事件を下敷きとしたいと思います。
 初めての方もおられると思うので、まず私の略歴を申し上げます。私は太平洋戦争の終戦直後の1947年、東京に生まれました。池袋幼稚園、目白小学校、私立武蔵中学・武蔵高校から慶應義塾大学経済学部に進み、このまま社会に出ていくと、少なくとも周囲の人は期待していたと思うのですが、ちょうど1960年代の大学紛争期にあたり、いろいろと考えることもありまして、たまたまその年に東京方面で文学部が軒並み入試を取りやめたこともあり、それを口実に親離れをすべく京都大学の文学部を再受験し、哲学科に進みました。京大時代は、カントの哲学を中心に学んでおりました。大学院修士課程修了後ドイツのアウグスブルク大学に留学、ショーペンハウアーに関する論文で博士の学位を取りました。また、この論文により、留学生として初めてアウグスブルク大学賞を頂くという栄誉も受けました。それから、ミュンヘン大学を皮切りに、大学教員生活を送り、本学部開設とともに1995年にこちらに着任しました。ドイツには、学生・教員時代をあわせて15年以上住んでいた計算になります。現在は、哲学、倫理学、ドイツ語を担当しています。また、ゼミは、学生、大学院生、教員が親しく交流する、楽しい研究集団です。鎌田ゼミについては、いろいろな噂が流れているように聞きますが、あまり変な噂に惑わされないでくださいね。(^^)V また大学院では、今泉先生、細見先生と共同で、『クロスボーダー時代の思想と文化』というリサーチプロジェクトを運営しています。

 さて、テロ事件の問題に入りましょう。これは想像を絶する悲惨な事件でした。直接関係ない人を人質にとり、無差別殺人も辞さないテロは、防ぐことが難しいだけ、人々を不安に陥れました。テロは、近代社会のガンであるといってよいでしょう。それを私たちは、決して是認することはできないし、放置することもできません。しかし、だからといって、ただ力ずくで手術すればよい、というような安易な問題でもありません。手術で治るガンもありますが、アフガニスタンに先立つこと、すでにパレスチナ、リビア、イラン、イラク、エジプトなど転移を繰り返してきたこのガンは、いくら手術をしても、またしばらくすると別のところに転移する傾向があります。本来は、なによりもまず、どのような理由でガンができるのか、その要因と条件とを見届け、それらの要因や条件を引き起こさないような生活管理が必要となるはずです。たんに、ガンという悪玉を退治するだけではなく、患者も被害者意識を捨てて、自分自身の生活習慣・生活態度を改善しなければ、根本的な治療はできないことも多いとおもいます。
 しかし現代は、そのような病気の背景や原因になかなか関心を向けようとしません。ただ目に見える結果だけを大げさに騒ぎ立てます。それは、その場限りの対症療法、有権者相手の派手なパフォーマンスしか産みださず、本当の解決を産みだすことはありません。
 対症療法は、プロセスの軽視という弱点を抱えます。いろいろな問題を引き起こしている要素の複雑な関係から目を背けがちです。複雑なものからわざと目をそらし、わかりやすい、安易なところだけを見ることによって、現代の大衆社会は成立しています。難しいことは言わずに、イージーに、ボタンを押したり、お金を払えば、何でも手にはいる。どうしてそうなるかなどは関心を持たないように条件付けられているのです。難しいことは考えずに、欲しいものはお金で手に入れればよい。そういう考え方なら物流は活性化するでしょう。しかしまた、無反省な、欲望に忠実な大量消費による繁栄、それが廃棄物を増やし、環境を破壊する文化的背景ともなっています。
 そのような知性の均一化、単純化、画一化の流れは、まず、貨幣経済の発達ともに強められました。
 さらに、知性の均一化は、直接的な欲望の充足のモノカルチャー(単一栽培・単一文化)へと変貌しました。そこでは、これまでは自然状態に対抗する一定の意味づけ・秩序付け(低エントロピー)によって特徴づけられた人間の文化が、肉体の自然的・直接的欲求へと解体され、均一化されてゆくように思われます。食事やセックス、自己顕示欲といった、人間の単純な欲望の自己中心的な満足を全面に押し立てた生活様式とビジネスの浸透は、その氷山の一角にしか過ぎません。
 今述べた、「欲望充足(欲望を満たすこと)」のモノカルチャーの成立メカニズムを、私は次のように考えています ― みなさんは、パブロフの条件反射の実験をご存じですね?犬にえさを与えるときにベルを鳴らすと、やがて犬はベルが鳴っただけで唾液を分泌するようになる、という実験です。現代の欲望充足のモノカルチャーも同じ構造で成立したと考えます。 ― お金を払えば「欲しいもの」が手にはいる。手にはいるのは、お金を払うからであり、そのお金を産みだしたのは、額に汗して行う労働だったのですが、これを繰り返すうちに、〈労働〉→〈お金〉→〈欲望〉→〈充足〉というプロセスの(自分に興味ある)最後の関係だけが切り離され、「欲望があれば手に入れる」という条件付けが成立してゆきます。この条件付けの結果、あるものを手に入れるためにどのような努力や手続きが必要であるか、あることが起こるためにはどのような背景や複雑なプロセスが存在するか、といったことへのセンシビリティが麻痺し、「欲望があればそれを満たす」という単純化=欲望充足のモノカルチャーを更に強めてゆくことになります。とくに、非勤労層である青少年、親に経済的に依存する若い世代が、消費の重要な担い手である現代においては、そのような条件付けは極めて効果的に働きます。また、そのようなメンタリティは、地道なものの生産よりは、土地や財テクによって安易な所得を得ようとする風潮を育てます。 ― そういった名目上の儲けは、現実の社会経済のどこかを食いつぶしているのだ、というケインズの洞察(金融改革論)は、どこに忘れ去られてしまったのでしょうか。
 それは、まじめな努力に支えられる社会という理想にとって極めて危険な要因であるはずだが、金儲けになるから、それでいいと思って受け入れられているのです。

 同時多発テロで大勢の人が死ぬ。どうしてそのような信じられないようなことが起こるのでしょうか。どうしてそのような苦しみと悲しみとがひきおこされたのでしょう。それらのテロ行為が私たちには受け入れがたいものに思えても、だからといってただ報復するだけでは、相互に憎しみが増すばかりではないでしょうか。そのような憎しみのエスカレーションが起こらないようにするためには、まずはじめにその背景や複雑な要因を明らかにしなければならないはずです。しかし、安易でわかりやすいものへと条件付けられた人々は、ただ目の前のスペクタクルを見て騒ぎ、興奮し、テレビの子供番組よろしく、これは正義と悪、goodとevil との戦いであると単純化します。現実の複雑さについていけず、単純なものを待ち望んでいた人々は、わかりやすい善玉・悪玉ドラマに無批判に飛びついてしまいます。
 現実の世界は、私たちの通常の知性をはるかに超えた、複雑なできごとのネットワークからなっています。みなさん一人ひとりも、一見そとから見えるよりはずっと複雑な生活を送っているでしょう。そのような複雑な内的・外的生活を送る人間が何十億人もいる世界は、想像を絶する複雑な構造を持っているはずです。それらを撮影するなら、過去24時間だけに限っても、そこには、24時間×何十億人分、つまり、1兆時間以上のビデオ録音が必要になるでしょう。一人ひとりの行動に表れない心の動きまで記録しようとしたら、更に膨大な情報量になるでしょう。それを高々20分、30分の「世界のニュース」に圧縮するためには、2〜3兆分の1という強烈な単純化とステレオタイプ化が必要です。当然、そのまとめ方にはバイアスがかからざるを得ません。
 ニューヨークの町にあの恐るべきジェット機突入の同時テロが起こったとき、世界の目はニューヨークの二つの高層ビルに釘付けになりました。あるいは同じころ、アメリカのどこかで銃で撃たれて死んだ人がいたかも知れません。その死は、高層ビルの崩壊ほどめずらしくもなく、劇的でもなかったかも知れません。しかし、少なくとも銃に撃たれて死に臨んだ本人にとって、そして彼の死を知らされた身内の人にとって、高層ビルで犠牲になった人と同じように、比較を絶する固有の死であったはずです。いつか私たちをも訪れる死の多くは、そのような残酷な死ではない、むしろ平穏な死であることを願います。しかし、それにしても、そこで私たちが直面する死は、それぞれに、比較を絶する固有の死であるでしょう。
 ジェット機がビルにつっこむ場面の繰り返し、そこで繰り返される死者の数の報告は、私たちが自分の死と生とを見つめる目を曇らせはしないでしょうか。それは、あの大勢の人の死を、それがどんなに刺激的であろうと、結局ステレオタイプ化されたドラマの中の死として薄めてしまわないでしょうか。いな、私たちは、自分の生と死とに直面することから逃避するために、あの、映画の一シーンのような場面に見入ってはいなかったでしょうか。

 現実世界が極めて複雑な構造を持っていることを、一番よく知っているのが政治家です。それにもかかわらず、なぜ政治家は大衆を前に、現実はそれほどに単純であるかのように語り、ふるまうのでしょう。そして、メディアも、一見単純と見えるあのジェット機がつっこむ瞬間の映像を、これだけが唯一の現実だと言わんばかりに何十回、何百回と執拗に放映するのでしょう。メディアはメッセージである、と、マクルーハンは言います。刺激的な映像は私たちに一定のメッセージを送り、受け入れさせようとします。私たちはむしろ、その刺激的な映像によって隠された真実、多発テロを引き起こした背景と、多発テロが引き起こした帰結と、それらを巡る多くの国々や企業や社会の駆け引き、更にそれらを支えているさまざまな価値観に目を向けなければなりません。テロではない、戦争だ、という宣言は、直ちに、戦争準備の名の下に5兆円近くの経済効果をもたらしました。自国が戦場にならない場合は、短期的には、軍需景気の恩恵をこうむることができるかもしれません。しかし、戦争は世界を中長期的には疲弊させます。戦争は人命と物資の純粋な消費だからです。戦争を国内の問題や国民の不満から関心を国外に向けさせ、偽の挙国一致体制を産みだすための手段として使うという危険な誘惑から、政治家は決して解放されないのでしょうか。
 テロ対策は、国連の特別委員会の主導で行われます。アメリカの過剰な覇権やグローバリズムを危惧する国々は、国連での解決をアメリカに要請しています。しかしそれでは、アメリカにとって経済的なメリットは減少するでしょう。不況で景気が下がり続け、そこをねらいうちされた同時多発テロで更に落ち込んでゆく米株価も、現実に戦争が始まれば、その時の投機家や世論の動きいかんで持ち直すかもしれません。そのような望みが見えたときが、報復戦争の開始の時期になるでしょう。対するタリバンは、そうしたアメリカの読みを更に読みながら、時には強く拒否的に、時には交渉に応じる柔軟な態度を見せるなどいなしながら、国際世論の有利な展開を待っている、というわけです。
 はじめに申し上げたように、テロリズムという悪性腫瘍は、非常に転移しやすい腫瘍です。体のほうに、悪性腫瘍を産みだすような条件が残っている限り、体の健康状態を改善しない限り、切っても切っても、ほかのところに転移し、更に悪化していくでしょう。
 仕返し的な戦争によって、更に多くの人に苦しみをもたらし、憎しみの相乗効果を生みだしてゆくよりは、経済効果は低くても、国連を中心としたテロ対策、また先進国側もテロを挑発するような外交・経済政策の軌道修正と、富の再配分に向けた真剣な努力を積み重ねる必要があるのではないでしょうか。

 最後に、これまでお話ししたことから、私の考える「関西学院大学で学ぶことの意味」をくみ出してみたいと思います。
 私は今、今度の同時多発テロのできごとをめぐる様々な問題を列挙し、それらが密接にかかわっていることを示そうとしました。もちろん、私の述べたこと、私に見えたことすらも、その複雑な現実の一断面に過ぎません。私特有のバイアスももちろんかかっています。たった10分のニュースによって、あるいは、たった数秒の映像によって、現実のすべてを理解したと私たちは思い上がってはなりません。
 ものの複雑な仕組みを知らずに、いやむしろ仕組みを知ろうとしても知ることができないブラックボックスを前に、自分の欲望を表明する ― クレジットカードや、最近では電子マネーによって、労働に裏打ちされたお金の存在すら意識させることなく、ボタンを押すだけで、あるいは電話をかけるだけで欲望が充たされる現代、消費大衆は、そのような欲望のイージーな充足を通して、ますます欲望充足というバーチャルリアリティにはめ込まれてきたのです。人が喜ぶことを自分で考えてするのではなく、誰かが何かいいことを自分にしてくれるのを待つ身勝手な消費大衆は、まさにここから生まれるのです。そこでは、欲望を満たすものを手に入れる条件としての貨幣、あるいは貨幣をもたらす長時間の労働、というプロセス自身も覆い隠されてしまいます。それが、今回の集団多発テロを、ただ一つのスリラー・スペクタクルとして消費するばかりでその背景を問おうとしない大衆、その大衆にへつらいつつスポンサーのために視聴率を稼ごうとするメディア、さらに、背景への問いを隠蔽しようとする政治家の、報復戦争へ向けた共犯関係が成立しているのです。
 大学で獲得べき知、みなさんが大学で学ぶべきものは、まさに、そのようなバーチャルリアリティの構造を見抜く知的能力であると言えるでしょう。それは、知識の羅列などではありえません。むしろ重要なのは、知的活動力、知的筋力です。様々な知と知のネットワークを見透かすことのできる知性を鍛錬すること、それが大学で学ぶことの意義だと思います。

 最後に、みなさんがもたれたかも知れない疑問に、私が自問自答をして、このお話を締めくくらせていただきたいと思います。

 その疑問は、次のようなものです。「現代人は、ものを安易に考える傾向があるというが、昔の人だって、そんなに複雑な見方はできなかったのではないか?」(学術研究の発達を見れば、現代人の方がずっと複雑なものの味方をしているのではないか?) ― それに対して私は次の2点を上げておきたいと思います。
(1)昔は、社会自身が現代のように複雑ではありませんでした。社会の複雑性は、近代市民社会になって急激に増大したのです。おそらく、現在に比べて複雑ではない、また知識量が小さく見える社会でも、人々の知は、ほぼその全体をカバーすることができるものだったと推測しています。
(2)更に大切なのは、現代では、自分の理解力を超えるような複雑で分からないことがある場合に、それを認める精神構造が消えつつあるということです。自分が無知であることを知っているのが真の認識である、とソクラテスは考えました。しかし、現代では、自分が知らないことを、知らないと認めない傾向が強いのです。知らないことを教えられることに我慢がならない人が増えています。それは、広い意味で、環境世界への適応能力の欠如と言えるでしょう。むしろ、環境世界への気配りを振り捨てて「自分自身であろうとする」エゴイズムが賞賛されるのです。自分に何かが欠けているのではないか、自分は自己中心的に、他者(人や自然)を苦しませているのではないか、と自己吟味する思考回路が未発達です。現代は、文化としての高慢の時代です。それは、人と人との関係においても、国と国との関係においても、人と自然との関係においても現れます。
 イスラム世界を中心に、原理主義運動のエネルギー源ともなっている根深い反米感情も、そのような近代西欧的高慢と、短絡的な欲望充足のモノカルチャー(彼らの宗教的な表現を使えば、神を恐れることを知らない不敬虔・無神論)に向けられた批判の(いびつな)表現であると言えるでしょう。私たち日本人も例外ではありません。テロリズムを是認することは決してできません。しかし、彼らに石を投げつける前に、私たちの方も、自分の罪を思う謙虚さが必要だと思うのです。

 私個人の今年のモットーは、「複雑なもの、理解できないものへの畏敬」です。
 古代人の持っていた「神を恐れる心」とは、自己の思い上がり、自分が無知であることすら知らない状態への警告であったと思われます。それがまた、イエスとソクラテスとを結ぶ共有部分でもあったと言えるでしょう。
 しかし現代は、複雑なもの、理解できないものを嫌います。畏れ敬うどころか、理解できないものはくだらないものだ、理解できないのは、自分の理解力が足りないからではなく、相手が自分を理解させる力がないからだ、とおもう。そう思う瞬間に、その人の知的な進歩は止まります。
 その結果が、低俗な内容を繰り返すだけの大衆文化となります。マスメディアも、大学も、そういった無知の高慢にへつらわなければならなくなると、それは知の末期状態と言えるでしょう。
 「複雑なもの、理解できないものへの畏敬」は、それ自身、知的怠慢を意味するものではありません。知的怠慢から「すべては理解できる」と思い上がる無知への警告なのです。「複雑なもの、理解できないものへの畏敬」を学ぶ、これは、むしろ私自身への言葉です。しかしみなさんも、共鳴するところがあれば、いっしょに考えてみようではありませんか。
 ありがとうございました。



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